2016年04月29日

時間の感覚

ずっと昔に興味を持ち、長いこと忘れていたことを最近また考えています ww
時間の感覚です。

大昔、大学受験の時、文系、という以外に、あまり何も知らず、考えず、受験して、後になって、某大学に『人間科学部』というのがあるのを知り、なんで、もっと勉強しなかったんだろう!と後悔しました ww
それきり、その後の勉強や仕事や日々のことに追われ、そのことを置き去りにしていました。
で、最近になって、そうだ、興味があった、などと思い出し、また考えているわけです。

人は、時間をどのように認識してるんだろうか?
例えば、昨日、今日、明日。
春夏秋冬。
頭の中に、どんな風に入っていますか?
私の場合、昨日は。。。というと、なんとなく頭の右後ろから思い出すような感じ?
明日は何するんだっけ?と考えるときは、左前上の方かもしれません。
春夏秋冬と考えるときは、4つが繋がっている丸い帯状の輪が浮かびます。
去年の春と今年の春、とかは、ばねのようならせんの感じかな?
あるいは、下のように横の帯の時もあります。
今日、明日、あさって、何か月前、何か月後、と考えるときは、たぶんたいてい横の帯になります。
未来は左、過去は右、今は真ん中。
幼い子は、数日のことしか考えないというのを昔読んだ記憶があります。
時間の感覚というのは、成長する過程で、カレンダーを見たりして、身につけるのかもしれません。
こういうこと(時間の関わる事)を考えるとき、頭の中のどの部分がどういう風に反応してるのかな?

時間について、もう一つ。
同じ時間でもとても長く感じたり、あっという間だと感じたりってありますよね。
とても不思議です。
実際、何かをしてて、同じ時間でいつもよりたくさんのことができる時があります。
その逆も。
また、人より速くいろんなことができる人もいます。
私の仮説。
もしかしたら、人により、また、同じ人でも何かをする内容により神経回路の伝達スピードに差があるんじゃないでしょうか?
速いと処理が速く、より多くのことができる。
だけど、好きなことをしてる時は、あっという間に時間が過ぎ、誰かや何かを待ってるときは、とても長く感じます。
これは、好きなことをしているときは、もっと長くしていたいという願望があり、待っているときには、少しでも早く来てほしいという願望があり、その実際との格差で、長い、短いを感じるのでしょう。
なんか、面白いですね (^^)

興味のある方は、自分はどういう感じ、とか、どう考えている、とかコメントくださるとうれしいです (^^)

posted by リリピィの小部屋 at 11:14| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

記憶

短期記憶から長期記憶に移すとき、情報の重要度を決めるのは何でしょうか?
意思はあまり関係ない気もします。
勉強で、覚えなくては、と思っても、なかなか覚えられないことがたくさんあるからです。
本能でしょうか。。。
posted by リリピィの小部屋 at 10:27| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

相貌失認と記憶障害

私が、顔を知っているというとき、それは、感覚で知っているのであって、きちんと覚えているわけではない。
自分の顔ですら、これは、もちろん、鏡や写真でしか知らないしww、たとえば、描いてください、と言われたら、きちんとは描けない。
ブラッド・ピットは、たしか、顔の美しさとかそういうことがわからない、と言っていたと書かれているのを見た気がします。
普通、美しいとか好きだとかそういうのは、自分の好みであり、そういうとき、例えば大きな目が好きできれいだと思う、とかすっきりした顔が好き、とか、これも印象で何か好みがあり、誰かの顔を見たときに、好きなところがあったらそこが強調されて、美しい、と感じたりします。
どんな顔?と考えるときには、その印象に残ってるところがぼんやり?わかる、という感じです。
これは、意識の上層部にはそれしかなく、他は忘れても構わない情報で、相手の顔を他の人と見分けることができたらOKなのです。
だけど、ここで、敢えて、意識の上層、と書いたのは、本当は、もっと細部にわたって、記憶の底には保管されていると思うからです。
なぜなら、夢を見るとき、かなりの精度で相手の顔や状況など再現されるからです。
相貌失認の人たちは、おそらくとても賢くて、いろんなことを覚えることができ、そして、逆に忘れる(記憶の保管庫に入れてしまって、上層部から消す)ことが苦手で、そして、膨大な入ってくる情報の中で、何が大切で、何は忘れてもかまわないことなのかの判断をすることが苦手なのではないでしょうか。
人間失格の中で、知り合いや使用人などが、主人の前では良いことを言っているのに、陰で陰口を言っている、というくだりがあります。
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やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々みちみち、下男たちが嘆き合っていたのです。
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例えば、この場合、普通の人は、きっとこの人たちは父親のことを本当は好きではないのだな、とか、使用人だから、主人の前ではいうことを聞いているけど、不満があるんだな、とか思い、だけど、だからと言って、この人たちがどんな人格だ、とかは考えないでしょう。
それは、人格判断には足りない一面にしか過ぎない、とわかるからです。
また、人間社会ではよくあることだ、と思うくらいでしょう。
だけど、この情報が、普段の行為と同じ重さで判断基準として入って来たら、そして逆に判断に入れるべき人間関係のいろいろなことを入れ忘れたら、この状況は、まったくわけのわからないことになってしまいます。
父母についても、よくわからない、という下りもあります。
普通、父母については、一般的な場合、父母から愛されていたら、そのことは感覚的にわかり、叱られても、それは一時のことであり、愛情から来てるとか、あるいは、自分のしたことが悪かったとか考えはしても、そのことと基礎にある父母から受けている愛を同じ基準で判断しないでしょう。

つまり、入ってくる情報のうち、要らないものは捨て、残りを重要度で処理する、ということが苦手なのではないでしょうか。

記憶には、短期記憶と長期記憶があります。
情報はいったん海馬に入って短期記憶となり、そのあと、必要なものは側頭葉の長期記憶に移されます。
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例えば、聞いたことがない言葉があって、その情報が入ってきた場合、
情報を受け取った海馬は、前頭葉にその情報について調べてもらいます。
前頭葉はその情報が側頭葉に記録されているかを調査して、
その情報が記録されていないとなると、
側頭葉に対して情報を保存しておくような指示を出します。
海馬自体でも情報を保持できますが、
短時間しかとどめておくことができないため、
海馬と前頭葉の連携によって
海馬よりも長く大容量の情報を保存できる側頭葉に情報の記録を移すのです。
この一連の流れが記憶のプロセスとして重要です。
********(引用)

もしかしたら、相貌失認の人は、この移るときに、重要度を判断できない何らかの障害(もしかしたら前頭葉の障害でしょうか?)で、必要以上に長期記憶に移してしまい、その結果、人以上にかなりの量の事を覚えているのに、大事なことがわからない、ということになっているのではないでしょうか。
あるいは、もしかしたら、ほとんどの人は記憶の多くを側頭葉に移しているけれど、思い出すときに、その中から選択して必要なものだけ思い出すのかもしれません。
あるいは、記憶は、側頭葉以外の部分にも保管されていて、思い出せるのは海馬と側頭葉にあるものだけ、なのかもしれません。
そして、相貌失認の人たちは、そのどこかに障害が起きているのではないでしょうか。
posted by リリピィの小部屋 at 09:18| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする